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2020.01.22 播磨の母なる川、揖保川


播磨の母なる川、揖保川のイメージ

はじまりは旧石器時代

播磨の産業を支え、人々の暮らしに恩恵を与えてきた揖保川。兵庫、鳥取県境の中国山脈から流れ出て、西播磨平野を経て瀬戸内海へ注ぐ、延長70キロメートルの川です。まさに「母なる川」である揖保川流域で、人々が営みを始めたのは2万〜3万年前の旧石器時代にまでさかのぼると言われています。その後、この川はどのような歴史を刻み、今日まで続いているのでしょうか。

揖保川流域での営み

人々が住みついた旧石器時代はまだ土木技術が発達しておらず、雨のたびに川は氾濫したと言われています。しかしそれが功を奏し、流域に肥沃な耕土を造成。縄文時代後期には、耕地を利用し稲作を始めたようです。その後弥生時代には栽培型稲作が適用され、豊かな農耕社会に。国が殖産に力を入れ始めたこの時代、揖保川流域でも開梱が行われ、多種類の農産物が生産されるようになりました。

醤油や素麺(そうめん)の誕生

室町・江戸時代になると、揖保川流域で生産されていた米や小麦、大豆などの穀物を活用した食品がつくられていきます。なかでもこれらの材料にくわえ、鉄分の少ない水質だからこそつくることのできる龍野のうすくち醤油や、「揖保乃糸」で全国に知られる手延素麺(てのべそうめん)は、この地域での重要な産業となりました。高瀬船によって、醤油や素麺は下流の網干港へ運ばれ、ここを起点に京阪神に運び込まれ産業を築き上げたのです。

「龍野」と名付けられたわけ

東に揖保川、背後は山に囲まれたこの一帯は、「龍野」と呼ばれています。この地名が名付けられた逸話は『播磨国風土記』(和銅6年編纂)にあります。この地域はもともと古代山陽道・出雲外道の交通の要所でした。垂仁天皇に出雲から召され当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり、勝った野見宿禰(のみのすくね)は、出雲に帰る途中この地で病死。そこで出雲から多くの人が来て、揖保川河原から石をリレーのように運び、宿禰の墓をつくりました。この時の様子が「人々が立つ野」のようだと伝わり、「龍野」となったのでした。

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