うすくち(淡口)醤油で知られる龍野は、実はもともと酒造産地。酒造業がいつ頃始まったのかは資料が残されていませんが、万治元年(1658年)の記録『龍野町中酒造入米覚』には、「例年は6,358石のところ当年は3,128石」と書かれており、大量の酒米が使われていたことが伺えます。当時これほどの酒米を使用する産地は少なく、古くから酒造りが盛んな街として知られる伊丹に匹敵するほどの産地だったそう。寛文6年に64軒だった酒造業者は、7年後の同13(1673)年には、その数79軒にも達しました。
しかし大きな酒造産地でありましたが、「龍野酒」の認知度は低かったようです。天保2(1645)年に京都で出版された江戸時代の俳諧論書『毛吹草』(けふきぐさ)では、兵庫県下の酒は「伊丹酒」および「須磨濁酒」のみが紹介されており、龍野の物産は「龍野米」が掲載されました。この米を酒造に用いていたようで、そうしてできた清酒はおそらく播磨地方でのみ消費されていたのでは、と推測されています。
龍野藩脇坂家5代の安弘公の宝暦年間(1751〜1763)年頃から、酒造業の衰退が始まります。龍野醤油業界では、この理由を「醸造中の酒が再三腐り、商品にならなかったので、醤油主力の醸造になった」と伝承されています。このことを関連する出来事が、寛文6(1666)年に起きています。播磨で醤油醸造を始めたとされている円尾孫右衛門が、酒が腐るということで、酒になる前の甘酒にもろみを添加したところ、風味のよい醤油ができたと伝わっています。
酒が腐る原因は、揖保川流域の水にありました。龍野付近の水は、炭酸カルシウムが18.3〜23.2ppm、カリウムも0.95ppmしか含まれず、さらに鉄分も少ない軟水。酒酵母を育てるには栄養分が不足していました。しかし反対に、こういった水の特性は龍野のうすくち醤油を醸すのに最適。従来のものに比べて色の薄い醤油ができ、煮た食材に色がつかないため、精進料理や京料理といった文化を持つ京都でも受け入れられることになりました。