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2020.01.21 醸造の原材料 赤穂の塩


醸造の原材料 赤穂の塩のイメージ

全国で親しまれる赤穂の塩

播磨の醤油造りに欠かせない、赤穂の塩。赤穂は古くから塩の産地として栄え、江戸時代には入浜塩田による製塩法が完成され、その技術は瀬戸内地方を中心に広く伝わったとされています。東西の塩田で質の異なった塩をつくり、差塩(並塩)は関東・北国へ、真塩(上質塩)は、薄味を好む関西を中心とした近畿内に運ばれました。高瀬船や上荷舟(うわにぶね)、塩廻船(しおかいせん)によって各地に流通し、龍野では醤油醸造のほか、素麺(そうめん)製造の重要な原料になりました。

弥生時代から

発掘調査の結果、弥生時代末期の製塩土器が多数出土したほか、平安時代頃の塩田遺構が全国で初めて見つかりました。その後中世になると人々の移住が始まり、東に姫路、西に備前へと続く街道が整備されます。江戸時代になると播磨に入った池田家、その後の浅野家によって製塩事業が積極的に推し進められるようになり、塩田によって得た利益が街をさらに発展させました。明治維新後には東浜、西浜それぞれで組合が結成され、輸入塩からの保護や国内塩業の育成、財政収入の確保のため、政府による専売制が敷かれました。生産方法も流下式、そしてイオン交換膜式と移り変わりながら、現在も赤穂の塩が生産されています。

製塩方法の変遷

赤穂では、土器を利用した「土器製塩」に始まり、海水の干満を利用した水汲みの労力を減らす「汲潮浜」、さらに合理化された「古式入浜」、水尾をめぐらす大規模な「入浜塩田」へと、製塩方法も変遷していきます。特に入浜塩田は、年間の晴れる日数や日照時間、地形や海の干満差が1メートル以上あるなどといった必要な条件を、赤穂はすべて満たしていたのです。この製造法が取り入れられた江戸時代には、瀬戸内海沿いの地域で全国の8割以上の塩生産を担うほどに成長し、「十州塩田」と呼ばれていました。

塩づくりに必要な水路

塩づくりに必要な作業の際、近辺を流れる河川が重要な役割を果たします。製塩をする場合、濃縮した塩水(かん水)を煮詰めるため膨大な量の薪を使いますが、これらは高瀬船によって千種川上流部より運ばれていたようです。その名残として、有年地区では非常に珍しい灯台を見ることができます。

また東浜、西浜塩田でつくられた塩は、塩田に張り巡らされた水尾(水路)のなかを上荷船が行き来し、塩倉庫に運ばれました。西浜塩田の塩倉庫や水尾は、現在も残されています。

そして全国各地へ

赤穂の塩の販路は、塩廻船による他国への「沖売り」と、領内奥地への「岡売り」のふたつに分けられていました。東西塩田で石窯を用いて煎熬(せんごう)し、つくられた「差塩」は、江戸をはじめとした東日本や九州へ。西浜塩田の白く小粒で上品な味の「真塩」は、大阪を中心とした近畿地方に送られました。赤穂領内や奥地へは、天秤棒を担いで物を売り歩く「振り売り」や、高瀬船によって広められたようです。こうして龍野に届いた塩は醤製造の原料となり、良質な醤油を生み出したのでした。

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