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2020.01.22 諸大名憧れの地、姫路藩


諸大名憧れの地、姫路藩のイメージ

税収で儲けたいなら姫路藩へ

播磨は、山、川、丘、平野、海といった変化に富んだ地形が、バラエティーに富んだ産物を、大量に生み出す豊かな土地です。租・庸・調の時代から、税収が多さは全国一で、国を治める権力者たちの憧れの地域でした。平安時代中期に律令制が崩壊してから、明治時代までの日本では「年貢」として、お米で税金を納めていましたが、お米の生産高だけを見ても播磨地域はトップクラスでしたから、江戸時代の財政に苦しむ大名たちは「姫路藩に勤めたい」と皆思っていたそうです。

財政難から転封を希望した酒井氏

姫路藩を所望した大名のなかで、最も有名なのは、江戸時代中期の大名・酒井忠恭です。もともと酒井家は、徳川家から北の守りの要として、前橋に配置されていました。「ここは北の守りとして重要な地だから、酒井家はここで永代守ってくれ」と、徳川家から信頼されていたのです。しかし、残念ながら前橋はあまり実入りがよくありませんでした。利根川が曲がりくねったところで、毎年田畑が流されるような水害があり、しょっちゅう赤字で困っていたのです。そこで、当時の大物当主・忠恭(ただずみ)は、豊かな姫路に行って税収を上げたいと、転封(国替え)を希望します。結果、その希望は叶い、晴れて忠恭は姫路藩酒井家初代藩主となるわけですが、これに猛反対していた家老・河合定恒(さだつね)が、転封を取り計らった関係者たちを殺害するという事件が起こります。定恒からすれば「神君家康公から前橋を与えてもらって、永代動くなと言われているのに、何で動くんだ!」と、深い怨念を持っていたわけですが、酒井氏にとっては、それを押し切ってでもやって来るほどの魅力が、姫路藩にあったということでしょう。

引っ越し大名も姫路を希望

また、7回の転封を経験し「引っ越し大名」というあだ名がつき、映画化もされた江戸時代前期の大名・松平(結城)直矩(なおのり)も、姫路藩に勤めたいと希望した一人です。生涯で2度姫路城主となりました。1度目は5歳だったので不適当と判断されて国替に。成人後にあらためて姫路藩主となるも、親戚の御家騒動での不手際を指摘され、領地を減らされた上に豊後日田藩への国替を命じられました。松平氏は度重なる引っ越しで、巨額の負債を抱えていたのです。そういう大名こそ、豊かな姫路藩に勤めたいと強く思ったに違いありません。

豊かさの象徴「姫路城」

姫路市の中心に堂々と佇む「姫路城」。白鷺が羽を広げたような優美な姿から、別名「白鷺城」とも呼ばれ、現在は国宝や世界文化遺産にも指定されている建物ですが、これも当然ながら税収と深く関わりがあります。建設は、南北朝時代から始まり、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政の時代に現在のような大規模な城郭に拡張されたのですが、建設にかかる費用を賄うために、当時、なんと農民たちに約20%の増税が課されたそうです。令和元年の消費税2%増税には様々な反対意見が挙がりましたが、20%となると、その10倍にもなります。それでも農民たちが一揆を起こすこともなく、素晴らしく立派な建物が建設されました。こういったことからも、農民たちにある程度の蓄えが充分にあったことが伺えます。

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