発酵のルーツでもある「醤(ひしお)」の始まりは、奈良・平安時代にまでさかのぼります。律令制で政治形態を整えた当時の朝廷は、アジア大陸の中で最も文化の進んでいた、中国の唐朝へ遣唐使を派遣。彼らは中国の制度文物や技術、芸術、衣食住に関する新しい文化を持ち帰りました。遣唐使によって伝来した食品は、その数15種類。そこには日本食で馴染み深い納豆や胡麻油、そして「唐醤(からびしお)」もふくまれ、それこそが日本の食文化を大きく発展させる「醤」のもととなったのです。
中国で醤造りが始まったのは約3000年前、周王朝の頃。王朝を記録した「周礼(しゅらい)」によると、宴会用として「醤用120甕」と記されています。当時の醤の原料は肉で、これを「肉醤(ししびしほ)」と呼称。大豆を用いるようになったのは後魏(532〜549年)の時代からで、この醤を遣唐使が持ち帰り、以後日本で広まったのです。
『大宝律令』によると、唐醤の伝来後、宮内省の大膳職に「醤院(ひしほつかさ)」と呼ばれる施設を置き、醤の製造が始められました。のちに天平年間(730〜748年)の奈良・正倉院では、醤(しょう)、未醤(みそ)、滓醤(かすびしお)、豆醤(まめびしお)、真作醤(しんさくしお)、荒醤(あらしお)をつくっていたという記録が残されています。中でも唐醤の醸造法でつくられた真作醤は、最上級として扱われていたようです。
その後承平5(935)年に出版された『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)では、醤について「和名で比之保(ひしほ)と称し、別に唐醤、豆醤なり」という解説があります。つまり、中国から伝来した唐醤は大豆から造るため、比之保は麦を原料に。さらに朝鮮から伝来した髙麗醤(こまびしお)をここでは「美蘇(みそ)」と記載。唐醤、髙麗醤いずれも日本の気候風土に適した醸造が行われ、独自の調味料に育っていったのです。
もろみ状の醤から搾った液状が、日本における醤油の成り立ちです。文献に初めて醤油が登場するのは、なんと延長5(927)年に出版された『延喜式』(えんぎしき)。その後には、室町時代に後奈良天皇に仕えた公家山科言継の日記によると、永緑2(1558)年8月27日に、言継が女官の長橋局に「シャウユウ(醤油)」の小桶を送ったと記録されています。醤油を用いたレシピも古くからあり、室町将軍お抱え料理人である大草家が、応仁・慶長年間(1467〜1614)年に書いた『大草家料理書』に記述されています。