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2020.01.22 酒造りの歴史


酒造りの歴史のイメージ

酒造りのもともと

酒造りの歴史は古く、いつから始まったかということは、断言することができません。1300年前に編纂された「播磨国風土記」(はりまのくにふどき)によると、「大神の御乾飯(みかれひ・みかれい)が濡れてカビが生えたので、酒を醸させ、庭酒(にわき)として献上させ、酒宴をした」という記述があり、それを発祥とする説もあります。

商業としての酒造り

お米を原料とするお酒は、全国どこででも造ることができるため、昔から地域やコミュニティごとの「自家製」はあったものと思われます。それが商業的に発展していったのが江戸時代。主食であるお米が農村部で無駄に消費されることを危惧した江戸幕府は、お酒を嗜好品とし、城下町や在郷町、宿場町などの町場にのみ販売用の酒製造を認めました。このことによって播磨をふくめ、流通させるための酒造りが、各地でさかんに行われるようになったのです。

当時も今も変わらない

寛政11年に刊行された「日本山海名産図会」。ここに江戸時代の酒造りの方法を、図とともに説明した資料が残っています。これを見ると、もろみの仕込みに使う「大桶」や、麹(こうじ)を仕込むための「麹室」(こうじむろ)などがあり、現代とほぼ同じ造り方が確立されていたことが分かります。また、大量に酒を造るために大型の道具が使われていることから、当時酒造りを始めるためには、かなりの資本力が必要だったということも言えるでしょう。

有名な酒どころが誕生

灘、伊丹など関西の有名な酒どころも、江戸時代の頃から現れ始めます。播磨でも、姫路の城下町として酒造りが認められていたので、姫路の本陣を務めていた那波家でも行われていました。播州は昔から技術をもった杜氏集団が多く、播州杜氏という一派もいたようです。商業的に発展してくると、余剰米では足りなくなり、酒造用にお米が購入されるようになります。そこで活躍したのが、米どころである播磨。質の良い播磨のお米は、酒造りにおいても人気を博しました。

村米制度というつながり

播磨地方の酒米産地と、灘五郷をはじめ特定の蔵元との間で、酒米取引が交わされるようになった「村米制度」。農家は質の良い酒米を蔵元のために確保する代わりに、蔵元は一定の量のお米を毎年買い続ける、という内容です。現在も一部地域にはこの制度が残っており、災害の際は助け合うなど、強いつながりが続いています。

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