たつの醤油の歴史は、赤松家臣団であった4人が始めた醸造業によって幕を開けたと言っても、過言ではありません。彼らはそれぞれ、現在のたつの市本町で「円尾屋」、大手で「栗栖屋(後に千本屋)」、下町で「幾久屋(後に菊屋)」をスタートさせました。慶長17(1612)年の円尾家条々には「酒、みそ(味噌)しゃうばい(商売)ゆたん(油断)なくせい(精)を入可申事(にゅうべもうしごと)」とあるように、酒が中心で、味噌も製造していたことがうかがえます。
龍野はもともと、伊丹に匹敵する酒造産地でした。しかし揖保川(いぼがわ)の水が軟らかく鉄分が少ないなどの理由から醸造中の酒が腐り、商品にできなかったことが多々ありました。寛文6(1666)年、「円尾屋」を操業していた円尾孫右衛門が、「淡口(うすくち)醤油」の製造法を開発。生酒が腐ってしまうため、酒になる前の甘酒にもろみを足したところ、風味のよい醤油ができたという説が。そうして次第に他の醸造家たちも醤油業へ転換、17世紀には醤油産地が形成されたのです。
元和5(1619)年には泉州堺の商人によって、大阪から江戸に醤油が送られました。江戸に送られた関西の醤油は、関東のものに比べ品質・味の良さが評価され、上方から来た「下り醤油」と呼ばれ、歓迎されることとなります。なんと値段は関東産の2倍。関西では貞享3(1686)年以前よりもろみを袋に入れ、その上に石を置く方法で醤油を搾っていました。関東でこの手法を取り入れたのは、25年後のこと。それまではもろみ混じりの醤油だったので、質は異なり、値段にも大きく差をつけることとなりました。
京都市場へ出荷が本格化したのは、延享3(1746)年から。「円尾屋」7代の孫右衛門は長男・孫八に京都に出張所を開設させます。同様に、龍野の有力業者も京都に進出し、市場の拡大を目指しました。こうした中で「菊屋」の6代目は京都で地造醤油株を購入し、上立売堀川東で醤油醸造を始めたそうです。
しかし京都の醤油造りの歴史は長く、室町時代から始まったと伝わります。幕府が江戸に移った以後も生産は活発で、宝永〜正徳年間(1704〜1715年)には製造家が150軒前後に達し、他国へ出荷するまでになったほど。激化する販売競争の中で、龍野の醤油を広めるには難しい状況でした。
18世紀後半まで、京都市場における他国醤油は、備前醤油が独占状態でした。龍野醤油が広まるのは、18世紀後半から。つまり20〜30年の短期間で備前醤油を凌駕したことになります。龍野のうすくち醤油は京料理に醤油の色をつけないことと、品質の良さ、そして経営陣の意欲的な販売姿勢があったからこそ。さらに播磨から京都へ積み出す業者が急増したことも、食・文化の中心であった京都で広まった理由の一つでしょう。