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2021.04.01 姫路城の酒蔵の遺構


姫路城の酒蔵の遺構のイメージ

江戸時代の姫路の街

現在の姫路の市街地そのものである、姫路城跡一帯。発掘・研究が進められ、今日までに姫路城跡地で発見された埋蔵文化財は、なんと445件。国宝の「大天守」を街の中心に、螺旋状の堀がまわりを囲むようにして広がっています。内・中・外、それら3つの堀の中にはかつて城下町があり、見つかったのは、武家屋敷や町家、商屋、お寺などの遺構。そのなかには姫路で酒造りがさかんに行われていたことを紐付ける、いくつかの跡がありました。

町家で見つかった醸造の跡

中堀と外堀の間にある町家から見つかっているのは、米や大豆を蒸すための大きなかまどの跡。おそらくここで醸造をしていたのではないかとされています。しかしひとくちに醸造と言っても、味噌や醤油など、さまざまなものが考えられます。姫路城にわずかに残る文献によると、大きなかまどと土坑を使っていたのは、造り酒屋しか当てはまらないことがわかりました。さらに、各家に井戸の跡が見られたことにより、姫路には酒造りに欠かせない水がふんだんにあったのではないか、と考えられます。

豆腐屋のような、75軒の造り酒屋

姫路城の文献によると、1666(寛文6)年ごろにはこの界隈に、造り酒屋が75軒あったと記述。しかし姫路から藩外にも広く流通されていたという記録は残っておらず、おそらく地産地消されていたのだと考えられています。それほど姫路の人はお酒が大好き?かと思いきや、当時の中小都市では一般的な軒数。さらに、酒蔵と聞くと思い浮かぶ大きな蔵のようなものではなく、いずれも町家の一角で醸造しその場で販売もする、まるで豆腐屋のような小さな酒蔵が、点在していたとみられています。

灘は大規模、姫路は小規模

江戸時代前期には75軒あった造り酒屋も、1733(享保18)年には31軒に。その後1759(宝暦9)年には8軒にまで激減します。その要因の一つとして考えられるのは、近隣の伊丹や灘の酒造による影響。灘の酒造は麹を保存するための室、かまど、絞るための土坑など設備が明確に分かれて配置され、規模はまさに「工場」。いっぽう、住居一帯の町家の一角を工房に、火をかける横で絞りを行うというような狭さが、姫路の造り酒屋の特徴です。ここからも灘や伊丹は当時から酒造りが一大産業であったことが伺え、また姫路の酒蔵は小さい規模だったと言えます。

郊外に広がった酒造り

幕末になると、街から離れた農村の町家における酒造りが増えてきます。城下町から、郊外に産業が移ったのです。姫路の老舗酒蔵として知られる「壺坂酒造」は1805(文化2)年創業ですが、市街地から離れた旧神崎郡にて始まっていることからも、産地としてのエリアが広がったことがうかがえます。ちなみに江戸時代は、幕府によって定められた「酒造株」を取得したものしか酒造りができませんでした。年貢として収められる米の量によって、醸造できる量が決まるため、その影響もあったのかもしれません。姫路は175株持っていたと記録が残っていますが、実際にすべてが稼働していたのかなども、未だ謎に包まれています。

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