昨今、播磨では「GIはりま」のような原料にも特化した地理的表示の取り組みや、地元の素材のみを使って醸造する醤油蔵など、地域独自の「食」を見直す動きがさかんです。こうした「テロワール(土地の個性)」と定義される食文化は、地形や気候条件だけでなく、人々によって支え合いながら築いてきた背景がありました。
岡山や広島を経て運ばれてくるものの鄙(ひな)の国の最終集積地として、重要な役割を果たした播磨。その理由とはなんでしょう。ひとつは城下町であること、さらに寺社仏閣の存在もまた、非常に大きいと言われています。お寺には、外界からのさまざまな技術や文化が入ってきます。とくに鎌倉時代の禅宗や浄土真宗といった大衆仏教は、庶民の信仰心の萌芽となったとともに、新たな生活技術も普及。ゆえに播磨に多くあるお寺などから、地域の食文化が育まれた可能性も大いにあるわけです。
さらに江戸時代は幕藩制によって社会が藩ごとに区切られ、藩外とのやり取りは容易ではなく、作物の新しい品種を持ち込むことも大変なことでした。しかし播磨では、その多様性ある風土を生かすべく、麦ひとつとっても大麦、小麦のほか、もち麦などたくさんの種類の作物を栽培。それが可能となったのも、寺社仏閣による交流によって種が持ち込まれたからこそ、かもしれません。
人は生きて活動をする中で、さまざまなアイデアが生まれます。それを実現するため、地域にある技や素材を使って工夫を凝らし、うまくいけば生活に取り入れる。そうした過程を踏むことによって、地域文化が醸成されていきます。播磨独自の食文化もまた、突き詰めると浮かび上がるのは人の存在。古来より、土地の持つ条件をなんとか活用して多様な農業のかたちを築き、大阪や京都のマーケットに対してさまざまな創意工夫を凝らしながら醸造品をつくる。いわば地域の人々が知恵比べをしながら、生きてきたのがうかがえます。そんな涙ぐましい努力こそが、テロワールを育んだひとつの大きな理由と言えるでしょう。
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