山間部の北播磨、平野が広がる東播磨、そして山が瀬戸内海に接する西播磨。5つの川がこれらをつなぐように流れ、こんにちの播磨の姿があります。「播磨」という地名の由来は、「晴れ間が多い」からというほか、播磨海岸の弓を張ったような形を表した「張り浜」から由来されたとも伝わります。この弓なりの海岸線は瀬戸内海としては珍しく、潮通しのよさが特徴。また明石海峡に続く船泊りの地でもあり、瀬戸内海という大動脈の一端を担う重要な地域でもありました。
江戸時代以前は、水路を使って穀物や醸造品を都へと送り出していました。そのため加古川や千種川、揖保川などは、動脈として大きな役割を果たしてきたのです。山間部からは切った薪や炭などのエネルギー資源が積み出され、沿岸部からは海藻や干イワシなどが送られます。海藻や小魚はミネラルを多く含み、畑作をする農地にとっての重要な肥料だったのです。川を通じてものが行き交う、海と山の交易です。
山と海がつながる播磨にとって、地域間の交流は大切なものでした。漁村と農村に互いの地域の女性を嫁がせる「通婚圏」はそのひとつ。血縁がつながることで関係がより強固なものとなる上、海の幸と山の幸が交換されるようになったのです。相互扶助の関係を血族としてつなぐことは、当時の人々にとって生きる上で必要な安全保障でもありました。山や海に隔たれることなく、ひとつの地域として見通せる播磨だからこそ育まれた文化と言えるでしょう。
祝いごとのたび、親族間で互いの地産品を贈る慣習も「通婚圏」があった播磨で生まれたもの。漁村部からは「いかなごのくぎ煮」など、手づくりのものを贈り合ってきました。全国各地にいかなごの産地はありますが、手づくりのくぎ煮が地域に広まった例は見られません。贈答文化が根付いていることと、手作りすることは密接に結びついていたことがわかります。